【義】とされるということ
本日もこころのエステ・フィットネスに立ち寄ってくださり
ありがとうございます。
最近、テレビから 「大義」(たいぎ)という言葉を
よく耳にして、興味深いなと思っています。
聖書でも「義」という言葉はとても重要な
キーワードなのです。
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「義」という字を「義(ただ)しい」と読みます。
聖書で「義とされる」とは
神様の目に「義(ただ)しい」とされることを意味します。
人の目にではなく、神様の目に、です。
神様の義(ただ)しさは、時に 人の「正しさ」を超えていきます。
厳しいことですが、人の目に「正しい」とされることでも
ひょっとしたら、神様の目に「正しい」とされるかは
わからないというのです。
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ところで、争い・・・というものに目を向けたとき
人の「正しさ」と「正しさ」が闘ってはないでしょうか。
人の範囲では、残念ながら、
白黒はっきり決着させることは
困難な場合があります。
理不尽、不条理さが残ります。
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さて、聖書では、「義」とされることは、ただ一つ
イエス=キリストという方が、わたくしたちの身代わりとなって
十字架におかかりになった、そのことは「義(ただ)しい」
ことだった
ということのみです。
また、たいへん、もったいないことですが
そのイエス様の十字架を信じるもの、すべてのものが
「義」(ただ)しいとみなされる・・・
という約束があります。
わたくしは、そのことを信じています。
わたくし自身、自己中心で、決して「正しい」ものとは
いいかがたい存在です。
しかし、そのようなわたくしのために
イエス=キリストは、十字架にかかってくださった
そのことを信じるわたくしを
「義(ただ)しい」とみなしてくださる・・・
「正しくはないけれど(それを赦し) 義しいもの」
と見てくださり、見通しを与え、希望を与えてくださる
本当に有難いと思っております。
ぜひ、みなさまも、「義」としてくださる
ご存在に目を向けていただきたいと
願っております。
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