罪を贖う唯一のいけにえ
本日もこころのエステ・フィットネスに
訪れてくださり感謝します。
ヘブル9章には「罪を贖う唯一のいけにえ」と
小題のついている箇所があります。
天の聖所の写しがこの地上にもあったと
聖書は言います。
創造主はモーセにその聖所(幕屋)に
ついて正確に細かく規定した設計図を伝え、
モーセはそれを人々に伝え、規定をつくり
人々はそれを幕屋での儀式に具現化しました。
(出エジプト記25章~レビ記~民数記)
大切なことは幕屋(聖所)建設以前に
「約束(契約)」があるということです。
創造主が神の民と結ばれた「約束(契約)」
が確かなものであることを「聖所(幕屋)の儀式」
あらわしていたのです。
神様の「約束」なしに「儀式」はないのです。
その約束の中心は「神はともに住む」
(出エジプト記25章8節)なのです。
「約束」(本体)が失われたところの「儀式」(写し)
は形骸化(形式化)してしまうのです。
神が共に住むという「約束」のために「儀式」において
「罪を贖う唯一のいけにえ」が必要なのです。
イエスキリストの十字架の血だけが「聖所(幕屋)」
の儀式において「罪を贖う唯一のいけにえ」となる
ことが語られています。
「いけにえを捧げる」
神はそのことを「わたしたち」に負わされることなく
「イエス」に負わされたのです。
「つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、
人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたち
にゆだねられたのです。」
(新約聖書 二コリント5章19節)
「和解」という言葉が皆様の周囲に
広がっていくことを願います。
9:23 このように、天にあるものの写しは、これらのものによって
清められねばならないのですが、天にあるもの自体は、
まさったいけにえによって、清められねばなりません。
9:24 なぜならキリストは、まことのものの写しにすぎない、
人間の手で造られた聖所にではなく、天そのものに入り、
今やわたしたちのために神の御前に現れてくださったから
です。
9:25 また、キリストがそうなさったのは、大祭司が年ごとに
自分のものでない血を携えて聖所に入るように、
度々御自身をお献げになるためではありません。
9:26 もしそうだとすれば、
ところが実際は、世の終わりにただ一度、
ために、現れてくださいました。