愛と罪ー2-
聖書の立場
「愛」の反対語を「罪」と
表現しています
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【愛】と【罪】についてー1-
「愛」とは・・・「罪」とは・・・
を考えてみること、
これが聖書を読む中心テーマ
です。
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ゴールデンウィーク後半
ID:8pfr72
本日もこころのエステ・フィットネスに
お立ち寄りくださって有難うございます。
みなさま、ゴールデンウィーク楽しんで
おられますでしょうか。
ゴールデンウィーク後半になります。
皆様が、こころもからだもゆっくり
休息できますようにと
お祈りしています。
愛は「血」オール・イン・ワン
本日もこころのエステ・フィットネスに立ち寄ってくださって有難うございます。
「愛は○○」シリーズ。今まで一部ですが、
聖書に「愛」が「塩」「水」「油」にたとえられているところを
ご紹介してきました。
今回は「愛」が「血」に表されているところをご紹介します。
専門家ではないので、医学的に詳細を述べる立場ではありませんが、
「血」の成分には「塩分」「水分」「脂分」が適切にオールインワン、
バランスよく含まれているのではないでしょうか。
ところで、聖書には、イエス・キリストが十字架上で血を流された、
そこには人間への神様の愛が現れていると記録されています。
(ヨハネ第一の手紙4章)
「イエス・キリストの血」についての詳細は別としても、
一般的に「血」が「いのち」を支えていることは
ご理解いただけると思います。
それを「愛」と置き換えると「愛」が「いのち」を支えている
と聖書は言うのです。
アンパンマンの作者、やなせたかしさん作詞の「手のひらを太陽に」
という歌の歌詞には「真っ赤に流れる僕の血潮」とあります。
そして「ぼくらはみんな生きている」と繰り返されます。
こころの冷たい人のことを「血も涙もない人」と表現することもありますね。
さて、今は、クリスマスの時期ではありませんが、
クリスマスカラーというものがあるのですが、
どうしてサンタクロースの色が「赤」と「白」なのか。
実は「赤」は「血」を、白は「純粋なこころ」を表します。
「血(=愛)」がわたしたちのこころを「純粋にし、清める」
という意味です。
体の隅々に「血」が行きめぐっているので、体温が保たれ、身体の組織が
生き生きしています。それと同じように、わたしたちの「こころ」にも神様の「愛」
がくまなく行き巡り、満たされることで「生きる」というのです。
クリスマスの時期に限らず、豊かな神様からのプレゼント・愛を、
日々お受け取りください。
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愛は油-2-癒しの香油
本日もこころのエステ・フィットネス
に立ち寄ってくださり有難うございます。
「愛は○○」シリーズ。
聖書に「愛」が「油」にたとえられているところの2回目です。
今回は人の身体やこころの「癒し」に用いられていた
「香油」についてお伝えします。
現代のアロマセラピーをご存知の方も多いと思います。
わたくしの長女は、今、横浜の病院で作業療法士として働いていますが、
大学の卒業研究は「アロマによる癒し効果」に関連したものでした。
日ごろの働きの中で「アロマオイル」を用いることもあるようです。
北海道は「ラベンダー」でも有名ですね。
ラベンダーから精製される「油」も「リラックス効果」
があることが確かめられています。
このアロマセラピーは、4000年前の時代からありました。
聖書のいうところの神様は、目には見えませんが
人の五感(「視覚」「聴覚」「嗅覚」「味覚」「触覚」)を通して
「愛を感じられるように」してくださっています。
聖書の中に、一人の女性が「香油」をイエスキリストに
塗ったという物語があります。
その「香油」はたいへん高価なものでした。
そして、「家は香油の香りでいっぱいになった」
と記録されています。
(新約聖書12章3節)
愛は人間関係の「潤滑油」です。
みなさまのご家庭が守られて「愛の香り」で
一杯になりますようにとお祈りしています。
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愛=油 【1】希望を灯すあかりの燃料
本日もこころのエステ・フィットネスに立ち寄ってくださり有難うございます。
「愛は○○」シリーズ。
今回は聖書で、「愛」が「油」にたとえられているところをご紹介します。
みなさまは、「油」という言葉からどのようなものをイメージされるでしょうか。
おいしい料理に必要な植物油、おしゃれなオリーブオイル、
また、車の安全を守るエンジンオイル、ガソリン等、飛行機のジェット燃料・・・
冬には暖かいストーブの灯油、
そのほか、エステに使うアロマオイル等々。
さて、聖書にたとえられている「油」とは、第一には「ランプの油」なのです。
今のような蛍光灯、火力発電による電源がなかった頃、
油は、部屋や道を照らす灯火(ともしび)をともすための燃料として
貴重なものでした。
真っ暗な部屋や真っ暗な道を歩くのは不安が伴います。
転倒などの危険を避けるために「光」「あかり」が必要です。
聖書では「光」や「あかり」は「希望」を象徴します。
そのような「希望」をもちつづけるために、
「愛」を象徴する「油」が必要であることが記されています。
「純粋な油をともし火に用いるために・・・」
(旧約聖書出エジプト記27章20節)
「あなたの神は喜びの油を」
(新約聖書 ヘブル人への手紙1章9節)
豊かに人々に与え、注いでくださる方と聖書には記されています。
愛は、人のこころの「喜び」や「希望」に必要なものという表現です。
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「愛」=「塩」-3- 防腐剤・清め
本日もこころのエステ・フィットネスに立ち寄ってくださり、ありがとうございます。
愛=塩というお話の3回目です。
聖書に「自分の中に塩を持ち、互いに平和に過ごしなさい」(マルコ福音書9章50節)
とあります。「塩」の効能が「愛」の効能にたとえられていますが、昔、今のような冷蔵庫、
保冷技術、クール宅急便のような輸送手段がない時代、海でとれた魚は、塩漬けにされ
て山間部に届けられました。塩が「防腐剤」となったのです。
心が「腐敗(ふはい)」しないためにバランスのとれた「神様の愛」があるのです。
さて、もう一つのお話です。
日本の伝統文化競技「すもう」では、試合の前に「塩」をまきますが、
それは「土俵を清める」意味があります。聖書にも「戦い」のあと
「塩をまいた」という記述があります。
聖書では「清(きよ)め」とは「愛のこころが増すこと」
を意味しています。
冒頭の聖句は「自分の中に「愛」を持ち、互いに平和にすごしなさい」と
読み替えることができます。愛は、適切に、バランスよく用いられるならば、
悪いことをしようとするこころの「抑止力」(ブレーキ)になります。
こころを清める(=愛情深いこころにする)ために、「神様の愛」が必要です。
「いつも塩で味付けされた優しい言葉をつかってみましょう」
(新約聖書コロサイ4章6節)
これは、「いつも愛情のこもった言葉」をかわしてみましょう、
ということです。
前回「塩の教訓」として「愛はバランスが大切」ということを書きました。
現代人は、塩分過多の傾向があり、健康のためには「塩分控えめ」がいいようですが、
人の愛は、少々バランスを崩しているようです。
それに対して、神様の愛は非常に「バランス」がとれたものであり、
バランスの崩れた人の愛をよりよい形で、バランスを戻すために、
必要不可欠なものです。
ついつい忙しさの中で、優しい言葉をかけられない状況があるかと思いますが、
「優しい」ことばは「憤り」を静めるのです(旧約聖書箴言)
「塩で味付けされた言葉」を交わすとき、必ずその人間関係は円滑になります。
神様の愛で満たされている「聖書のことば」が皆様のご家庭をより愛情深いもの
とするためにお役に立てるならうれしいです。
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愛は塩-2-素材の良さを引き出すもの
「神様の愛」=「塩」というお話の2回目です。
みなさまの中には、お料理がとても大好きな方、ちょっと苦手とおっしゃる方、様々だと思います。ご家族のために、日々、食事のご用意、メニューを考えたり、調理したり、毎日のことなので、大変ですよね。本当にお疲れ様です。
ところで、我が家は共働きなので、家内の帰りが遅くなるような時は、わたくしも料理をいたします。(メニューはそんなに多くないですが) さて、お料理好きの方もそうでない方も、「塩」の役目の一つに、「素材の味を生かす」「良さを引き出す」という役目があることは、経験上知っておられる方も多いと思います。
高級料亭(行ったことはありませんが、笑)で、てんぷらを天然塩だけで食したり、おぜんざいの季節、一つまみの塩が、甘さを引き立たせたり、整えたりしますね。「愛」=「塩」という考え方は、そのあたりにも通じます。神様の愛に基づく愛が、その人本来の良さ、味わいを引き出し、深めるというのです。
「あなたがたは地の塩です」(新約聖書マタイ福音書5章13節)という表現が聖書にあります。ここには、お互いの存在が、語りかけ・コミュニケーションが、お互いの良さを引き出すもの、高めあうもの深め合うものとなればということが勧められています。
「愛(=塩)」をバランスよく、適量用いることがご家庭のよりよいコミュニケーションに繋がりますようにと願っております。
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「愛」は「塩」①大切なバランス
今回は「愛」=「塩」というお話です。聖書の中心テーマは「神様の愛」なのですが、「愛」といっても少し抽象的で、どのように考えたらいいか戸惑いが多いというのが現実ではないでしょうか。そこで、聖書には、「愛」がいろいろなものに喩えられており、その一つに、「愛」が「塩」と喩えられています。(マタイ福音書5章13節他)
「愛」というとなにか甘い「砂糖」を連想する方もいらっしゃるかもしれませんが、聖書の伝えるところでは「愛」=「塩」なのです。どうして、愛が「塩」に喩えられるのか、その第一として身近な食生活の中で、塩は「欠かすことのできない調味料」であること、それが転じて「愛は欠かすことのできないもの」の象徴となっています。また、「塩」が安く手に入る現代の日本では、なかなかピンと来ないのですが、聖書は2000年前、ユダヤ地方を舞台としたお話です、当時「塩」は、岩塩から精製され、「たいへん貴重で高価」なものだったのです。人が生きる上で、「神様からの愛」が「欠かすことのできない」「非常に貴重で高価」なものであることが教えられています。また、同時に「愛」で大切なことは「バランス」であることもそこに示されています。「愛情」が「塩加減」に喩えられ“多すぎず”、“少なすぎず”が大切だということです。「愛=塩」ということについて、数回の記事に分けてお伝えできればと思っています。
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