【こころのエステ・フィットネス鹿児島】 ~貴方を内面から輝かせる愛 ~ 聖書のことば・智 慧[EQサプリメント] -93ページ目

誘惑者の存在

みなさま、今日も幣blogに来ていただきありがとうございます。

わたくしはあさ1時間、よる1時間、更新やコメントのお返事
みなさんとの交流の時間にあてておりますが、朝は30秒シリーズ
夜は今週も引き続き、エデンの園での聖書の記述をモチーフに
【人生の危機管理】というテーマでお伝えしたいと思います。

大切なみなさまのご人生を神様が祝福し
お守りくださいますように、心から祈りつつ。

さて、本日は【誘惑者の存在】についてです。

わたくしたちが、なすべき危機管理の一つとして、
【誘惑者にお気をつけください】
ということを申し上げておこうと思います。


イラクでの香田さん殺害の事件は誠に胸が痛む思いです。
詳しい、いきさつや背景などはっきりしないままの出来事
でしたので、わたくし個人的には何も評価、判断することが
できませんが、尊い命が奪われたという事実、
そのご家族の悲しみを思うと言葉がありません。


他でもない、エデンの園についての聖書の記述を確認しますと


「エデンから一つの川が流れて出ていた。園を潤し、そこで
分かれて4つの川となっていた。第1の川は、ピションで
金を産出するハビラ地方全域を巡っていた・・・第2の川は
ギホンで、クシュ全域・・・第3の川はチグリスでアシュルの
東を・・・第4の川はユーフラテスであった・・・」
(旧約聖書創世記2章10-14節)


チグリス、ユーフラテス:現イラク周辺を舞台にしているのです。



さて、「エデンの園」の悲劇を語るときにどうしても
避けて通ることができないものは、【悪魔の存在】です。

この「悪魔」は、エデンでは、最初に蛇という被造物を
騙し、堕落させ、その口を通してアダムとエバを誘惑し
神と人との【愛の関係を絶縁させた存在】です。

聖書はその大前提として、【愛と命の源、その付与者創造主なる神】
という存在とその対極の、<<人から命と愛を奪い、滅ぼす存在>>
である【悪魔・サタン】の存在を説いています。
どちらも目に見えない【霊的な存在】であるため、捉えにくい
存在であることは、また事実です。

世の中には、【どうしてこんなに悲惨なことが起こるのか】
という事件が現実、起っています。そのような事件の背後に
【悪魔】という存在をおいて、諸現象を見るのです。

わたくしは今は久留米におりますが、この4月まで
6年間関西西宮におりました。仕事の範囲は高槻というところ
までありましたが、途中R171号線、池田市を通っていました。
先日犯人の死刑が実行されましたが、池田市の小学校で多くの
小さな命が残虐な形で殺され、傷つけられました。
自分の住んでいたところから、車で30分の距離内での出来事です。
そして、事件のあったクラスには、
教会の信徒さんの姪御さんのお子さんがいました。

また、こちらに来てからですが、
6月に起きた佐世保の小学校での悲劇もみなさまの記憶が
だんだん薄れている頃かと存じますが、
事件の起きたクラスに先輩牧師のお嬢さんが在籍しています。

両方とも、小さな尊い命が奪われた悲劇でしたが、
わたくしにとって、とても身近なところで起きた事件でした。

【どうしてこんなことが・・・。】

事件後、犯人、加害者となった人物について、
精神分析・・さまざまな観点から調査がなされ
種々の見解、理由付けが試みられますが
納得いく答えは、見出せず、困惑を深めるだけの
ようにも思えます。それぞれの分析、見解、ある面、
決して間違っていないでしょう・・・しかし、

【悪魔がいるから】

という理由は考えられていません。

もちろん、「悪魔がいるから」という理由だけで
すべてを解決してはならないものではありますが、

見落とすと根本的な解決にはならないものでも
あるとわたくしの立場からは言えます。

みなさまは【神様】【悪魔】という存在をお信じになりますか。

また、信じられるとしたら、どのように捕らえ、イメージされる
でしょうか。

【悪魔】オカルト、ホラー映画もその一面を表現している
でしょうが、ここではそのような捉え方は控えたいと思います。


これから、折々に記事にしていきたいと思いますが
今日は、

悪魔という存在は
【人の心を自己中心にするために働く存在】

とお伝えしておきましょう。それに対して

神様は
【人の自己中心になってしまっている心を
愛の心に変えてくださる方】

と示しておきます。

神様、悪魔といってもどう捉えていいか本当に
難しいと思います。

しかし、人の心に「善い心」と「悪い心」があると
いう範囲ならわかってもらいやすいと思います。
善い心の源泉は神様から、悪い心の源流は悪魔から
なのです。

また、理解しておいていただきたいことは
人間は神様でもなければ、悪魔でもないということです。

仮に、神様を白、悪魔を黒 とするならば、
人間は灰色状態ということができるでしょう。
「善と悪が混乱している状態」
もう一度、アダムとエバが食べてしまった木の実の
名前を確認しますが、

「善悪を知る木」(創世記2章17章)」

というものでした。

世の中の矛盾、混乱、理不尽な出来事の背後に
目には見えませんが「神様」と「悪魔」の対立、
全宇宙的な大争闘があると聖書は記しています。

それがわたしたちの心の中にも写り、投影されて
おり、「心が善いものと、悪いもので混乱している
分裂し、引き裂かれている状態だ]というのです。

どうか、このblogを読んでくださる
お一人お一人が悪魔の誘惑から守られ
その尊い心が傷ついたりすることがないように
イエス=キリストの特別なお守りがありますように
陰ながらお祈りしています。

また、次回、具体的に聖書が教える悪魔の誘惑から
心を守る方法をお伝えしたいと思います。

このことを考えるときも、
根底にあるのはキリストの十字架の救いです。

悪魔という存在は確かにあるけれども、
神様は、悪魔に勝利された存在、
最後に「愛」は必ず「勝利する」ということ
覚えていただけたら幸いです。

●イエス=キリストの言葉●

あなたがたはこの世では苦難がある。しかし、
勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている


(新約聖書 ヨハネ福音書16章)

※ここで使われる【世】はということばは
【罪】(神様の愛から的を外したところ)という言葉に
置き換えて考えてみてください。

親のエゴ Part1



嫁にやるつもりはございません。

婿をとります。

親のエゴ Part 2

 



 嫁にやること?
・・・全く考えておりません。





職業柄、何件か結婚式の司式を

させていただいておりますが

【花嫁の父】・・・

華やかな、喜びに満ちた時、人々の中で・・・

花嫁の父・・・花嫁の父だけは・・・

さびしそう・・・・。


バージンロードを司式者の前まで
娘と腕を組み進んでこられる花嫁の父

かわいい娘とすごした年月を思い起こされている
のでしょう・・・遠くをみつめるような眼差し

反抗され戸惑った日々も、もろもろも今は大切な思い出


やがて、その手は、おろされ、
新郎の腕に、花嫁のうでは手渡される・・・

がっくりうなだれたい気持ちを
気丈に背筋をのばし・・・起立される白髪交じりの
花嫁の父

いつもそのような花嫁の父のお姿を拝見するたびに

いつか・・・我が娘たちも・・・そう思うと

涙が一筋 頬をつたうのでした。・・・(;へ:)⇔なみだ目

『楽園で失われたもの』 Part③

みなさま、本日もようこそ、弊blogに来てくださいました。


本当に悲しく残念なことに、悪魔の誘惑に負けてしまい
罪の状態に陥った人類最初の父と母、アダムとエバ。


今週はその悲劇の舞台となったエデンの園
に描かれているテーマからお伝えしています。

どうして今の時代にエデンの園か?

よくわたくしたちが、混乱したり、混迷したときは、
「【原点】に帰りましょう」と言うアドバイスなどを
もらうことがあります。

聖書のお話が語られる前提として「エデンの園」は
良くも、悪くも、あらゆる出来事の原点と
なっているからです。

o○°  .o○°  .o○°  .o○°  .o○°  .o○°  .o○° 

今日は、その第3話 楽園で見失われたもの
【人間の生きる意味、存在意義】です。


唐突ですが、悲しいことに犯罪に走ってしまう人は
【自分自身を失っている人】
といってもよいのではないでしょうか。


犯罪に走っている人は、自分を失っている

また、どうせわたしなんか、俺なんかと
ヤケになって人は犯罪を犯す・・・

自分の立場をわきまえていない・認識できてない人
ということばに置き換えることもできるでしょう。


どうしてあのような立場の人が・・・。
最近は警察も(昔からか?)、
学校の先生も(一生懸命やっておられるかたスミマセン)
政治家も(  “   ) 
お医者様も( “   )
そして、某大企業の社長も(   ”   )


自分は一体何者かという認識、熟慮が少しでもあれば
こんなことには・・・という人が増加しているように
思います。

その結果、不信感がはびこり、不信感は不安を、
不安はいらだちを生み、いらだちはやがて殺意に・・・
(とまでいうと大げさかもしれませが・・・)

キレやすい世の中といわれる、その根底には不信感
【信じられるものが何もなくなってきた】 
という思いが横たわってはいないでしょうか。

すべては 自分自身を見失った人の増加が原因
と考えられます。

人がなすべき危機管理の一つとして

【自分自身を見失わないように】

ということが大切ではないでしょうか。

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読者のみなさまの中には

伊藤守さんの
今日を楽しむための100の言葉
シリーズ デイスカヴァー21
をお持ちの方もあるかもしれません。

その中で次のように伊藤さんが
語ってくださっています。


犬になるための練習をする猫はいない。

猫になりたがる犬もいない

人間だけが自分以外のものになろうとしている

ほかの誰かになろうとしない。

ほかの誰かにならないように。

あなたがあなたであることの素晴らしさを知らずに

ほかのものになろうとしたり、

自分を良く見せる努力を続けたとき、

自分自身を見失うという悲劇が待っています
・・・
と。


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さて、罪の状態に陥った人間に、
神様が、最初に語られた言葉として
次の言葉が記されています。

アダム(=人よ)あなたはどこにいるのか

   (旧約聖書:創世記3章9節)


エデンの物語は
神様との、愛の関係を失った人間は、そのとき以来、
神様と面と向かうことができなくなり、

その結果、自分の生かされている意味、
存在している意味を見失うことになってしまった
と告げています。

聖書の書かれている大前提として、

神は私共の創造主として示されており、
そこには創造主の意志、意図というものが存在する。

わたくしたち一人一人が創造された意味と目的が
必ずある。そして、それを握っておられるかたは
創造主である。

というのですが

その方との【関係】が断絶されたため 
自分の生かされている意味と目的を見失い、
迷走することになったと・・・。

また、
そのとき以来、人には「恐れ」が生じたと書かれています。

その恐れとは、「自分の存在の意味」に対する不安なのです。
(創世記3章10節)


あなたはどこにいるのか」「どこへ向かおうとしているのか

この質問に答えることによって、
私達は自分の自己アイデンティティを確認できるように
なっています。

人は何によって自分自身を位置づけているでしょうか。

学歴、年収、職業、性別、出身地、地位、名誉
いろいろわたしたちを位置づけているものがありますが・・・。

今週末、今一度
「あなたはどこにいるのか」という問いに
ご自分なりに答えを入れて考えてごらんになりませんか。


会社の運営や自らの仕事の為、明確な【ビジョン】【方向性】を
建てることが大切なのと同様に、

いやそれをきちんと立てるためにも、
まず 病気や死の現実を含めた形での
あなたの【人生のビジョン・方向性】を確立しておかれることを
お勧めいたします。

あなたのご人生を意味あるものとし、今、一生懸命
取り組んでおられることが 真の意味で実を結ぶために。

そのことの、ほんの小さなお手伝いですが、
このblogが何かお役に立てれば幸甚です。

o○°  .o○°  .o○°  .o○°  .o○°  .o○°  .o○





■本日も、立ち寄ってくださり、記事をお読みくださり、


ありがとうございます。今日も暑い日となっておりますが


みなさまの今日一日がよい日となりますように。




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最近の悩み

お陰で娘は1歳になり
すくすく成長しておりますが、

それに伴って
悩みも増えてきたこのごろです。


最近の悩み

なんでも、カジる 口に入れる
 
怪獣 リョウカゴン!!




良香、それはお弁当箱、食べられないよ~

良香、それはお醤油いれ 食べられないよ~



良香、あ~~だめだめ、それはハサミ~!!
のどに刺さるところだった・・・ふぅ~。


ごめん、ごめん、お父さんが不注意だった。


良香、ごめんね、これは、ハサミ。

紙をきるもの、食べられないんだよ・・・。

口にしていたら、大変なことになる。


・・・いじわるで取り上げるんじゃないよ。

あなたがケガをして傷ついたら いけないから・・・。

わたしにとってのかけがえのない宝物 

その大切なあなたが傷ついたらいけないから。






『わたしは罪人です』

みなさま 今日も弊blogに来てくださりありがとうございます。
さて、いきなり・・・ですが「なんだ?こいつ」と思われた方
失礼いたしました。 牧師ひらたです。

今週は危機管理がテーマであり、特に「死」とは何かについて
取り組んでおります。そのような中で、本日のblogは・・・
とお叱りを受けそうですが・・・
少しこのようなblogを書く思いを述べさせてもらいますね。


本日のテーマは「わたしは罪人です」というものです。


いつもテーマ的に内容的に僭越な記事になってるなぁ
という思い・・・ひらたという人間はこんな奴ですけど
・・・大切なこと、ここに来てくださるみなさまとは
本音で語り合いたいという願い・・・厳粛に考えないと
いけないものでありますがあまり重たくなってもなぁ
・・・とあれこれ迷走しながらも、本質が示されれば
という自分なりの配慮をしまして・・・本日のような
記事になりました。 

小休止的な意味合いも含めております。


さて、前置きがながくなってすみません。

【罪】の語源は【的外れ】

先の記事は、あまりに抽象的な言葉ばかりでの説明でしたが・・・
みなさまにもう少し具体的にいろいろ感じていただきたく、
思い切って恥をさらしますが、
身近な実例からお伝えしたいと思います。


【実例1】

えぇ~ 上の写真、牧師 平田です。

ある日のわたくし と 娘&家内の会話です。


 「おとうさんベッカムに似とるやろ?」

次女&家内 「ん?なにか言った? ムシ、ムシ」


 「えぇ~、ひどいやん、無視せんといて」


次女&家内「ちゃうって、虫やて、虫」


「虫?」


次女&家内 「ハエ(蠅)・・・・」

「ハエぇ・・・(沈黙・意気消沈)」


罪、的外れ:「自分はサングラスをかけるとベッカム似」
というわたしの思いは「罪」なのです。

たいへん大きな「罪」なのです。・・・勘違いってことです。


【事例2】

わたくし実は、車を運転すると
人格的弱さが露呈してしまうことがあります。

個人的に善人の苦しみと定義しておりますが・・・。

わたくしは牧師という立場上、安全運転
制限時速守って車を運転しています。

しかし、どうしたことか、制限時速をオーバーして
ビュンとわたくしを追い抜かしていく車が
赦せない】のです。

また、
信号待ちしていて、わたしより先に発進する車が
ゆ~るせな~い】のです。

また、
方向指示器も出さないで、突然と前方に割り込んでくる車が
ゆるせな~~い】のです。

ですから、わたしは車を運転しながら、
【赦せない!!】を連発するので、後方座席から
娘が一言・・・

「お父さん・・・牧師でしょ(ボソ)」

「うぅ~。牧師でも人間です!!(いいわけ)」

ちゃんと日頃、教会の説教壇からわたくしの言っていること
聞いてないようで、聴いているんですね。

説教壇から
みなさん、お互いに赦しあいましょう
と説いている本人が
車にのると「赦せない」を連発する・・・

言っていることと、やっていることちゃうやん


はい、そのとおりです。
<(_ _)> 反省~。 状態の父です。

**************************


「わたしは罪人です。」

でも、神様の赦しと恵みの中で牧師をさせていただいています。


聖書ではすべての人は「罪人」と言います。

しかし、正しくとらえると、それは、責めたり、
犯罪者扱いしているニュアンスはありません。

それは、人間みな自己中心な存在だ
という意味でもありますが・・・

「お互い欠点はあるけど、共に神様に赦してもらいながら、
その愛を受けて、共にがんばりましょ。」というお薦めに
なっているのです。

「罪」:自己中心だけは、人間の力ではどうすることも
できないと聖書は説きます。

ただ、神の愛の力を受け入れることによってでしか
制することしかできない・・・と。

滝に打たれたり、なにか難行苦行をしてそれを克服しようと
しても自己嫌悪に陥るだけだとも伸べています。

自分の力ではどうすることもできない自己中心
キリストが解決してくださるということに頼るしかない。

「わたしも罪人」という言葉を神様の愛を通して考えると、
人間お互いいたわりあえるのです。
欠点を責めあうのではなくて・・・


ただ、罪の問題:自己中心を放置するわけにはいかず、
なぜなら、それは「死」をもたらすのですから・・・

「人はみな罪人」:キリストの愛と赦しにぜひ頼ってくださいと
嘆願することばでもあります。

キリストの赦しの本質は、映画【パッション】に現れています。
罪の問題、決して軽く扱ってはならないのです・・・。


また、詳しくは別の機会に。

明日の記事は、【危機に備える】
『人が楽園で失ったもの』Part③ 

【生きる意味を失ってしまった人間】
自己アイデンティティ・存在意義の危機

というテーマを予定しています。

『楽園から失われたもの』Part ②


みなさま、こんばんは。今日も弊blogにお越しくださり
ありがとうございます。

昨日は、聖書でいうところの【罪】は【自己中心】である
ということを申し上げました。
http://ameblo.jp/taizo-bokushi/entry-10000089263.html



今日も【愛】という言葉をよりよく理解していただくために、
【罪】という言葉についてさらに、その語源をお伝えしたい
と思います。


【犯罪】という言葉がありますが、聖書的には【罪】という
言葉とは、厳密には使用法が異なります。

聖書的には 【犯罪】は【罪の結果】なのです。

犯罪を地上の「草木」だとすると、
罪は土中の「根」にあたるものなのです。

犯罪の根底には人の自己中心がはびこっている

と聖書は示しているのですが、いかがでしょうか。


さらに罪という言葉の意味は深いものがあります。

罪の原語、ギリシャ語(新約聖書の原語)では
【ハマルティア】といいます。

原意に忠実に訳すと【的外れ】という意味です。


この言葉はもともと、古代オリンピック(ギリシャが発祥地)
のアーチェリーの競技の中で使われていた言葉なのです。


あたった弓矢が的の中心からどれだけ離れているかを
示す【単位】として使われていたものなのです。


的の中心に当たれば100点、としたら

80にあたれば 20ハマルティア
60にあたれば 40ハマルティア
20にあたれば 80ハマルティア

・・・というように

的の中心からどれだけ外れているか・・・

【罪】=【的外れ】なのです。


さらに罪ということば、旧約聖書では
【ペシャ】=【反逆】、【断絶】という意味があります。


ところで昨日までタイトルを【失楽園】にしておりましたが
一般的に使われてしまっているこの言葉のみなさまに与える
イメージと、わたくしがお伝えしたい内容、概念を表現
するのにあまり適切でないことがわかりましたので

【楽園において失われたもの】と変更いたしました。


【失楽園】この言葉を最初に用いたのは英国の詩人
ミルトン(1608-1674)といわれています。

**************************

※ミルトンについては次のような良書があるので
興味のあるかたは図書館でお探しになってみてください。

『失楽園』ミルトン著 平井正穂訳 岩波文庫
『ミルトン』新井明著 清水書院

*************************

【失楽園】楽園から人間が失ってしまった大切なもの
を考えさせる言葉なのです。

楽園で人間が失ったもの、それはたくさんあるのですが
第一には神様と人間との【最高の愛の関係】です。

神様との【最高の愛の関係】から的を外し生き始めた、
自己中心となった人間の姿が描かれているのです。

聖書ではなのです。
を失うことはを失うことを意味します。

神の愛との【断絶】が人に死をもたらすと聖書は述べています。

その死とは生物学的な、死という意味あいよりも
霊的な死を意味しています。

霊的なものについては
弊blogテーマ【スピリチュアルケア】を
今一度ご確認くださると助かります。

(霊について、後日もう少し詳しく記事にする予定です)


つづきはこちらです。


http://ameblo.jp/taizo-bokushi/entry-10000098462.html


『楽園から失われたもの』 Part ①

■みなさま、本日もようこそ弊blogへお越しくださいました。
一日のお疲れがでませんように。

当blog、本日は「エデンの園」に到着しております。

ご上陸前に、いくつかご案内申し上げます。

聖書、創世記1章、2章には、エデンの園は、
神様の造られた、この上もなくすばらしい楽園
として紹介されています。

神様は最初、この地球を何の不自由もない、
愛と命に満ちた楽園としてお造りになられたことが
記されています。

神様と人類、また動・植物が共存共栄していた美しく、
麗しい光景が描写されています。
そこでの生命は、永遠の命を有しており
病気や死は存在していないことが記されています。

ところが、その平和に満ちていたエデンの園において、
この地球上、最大の悲劇が発生したのです。
それが、今日から取り扱う【罪】の問題なのです。


■【罪】の問題に触れること、それは【愛】について
理解を深めるために不可欠なものなのです。
聖書でいうところの【罪】がわかればわかるほど
聖書でいうところの【愛】が分かります。
【罪】がわからないと【愛】が理解できないようになっています。


さて、このような罪の問題を紹介するとき、
どなたにも起こることなのですが
また、誠実な方であればあるほどそうなのですが、
「罪」の問題を共に考えていくとき、
心が苦しくなられる方があるのです。乱気流に
巻き込まれるということですが・・・

でも、そのような時は【愛の酸素マスク】が頭上から
降りてきます。使用方法としては「神様、すみません」
この一言です。覚えておいていただきたいことです。
神様の赦しがあなたの心苦しさを覆い包むことでしょう。

今は、詳しく説明する時間がございませんが
聖書的には【罪悪感】は祝福なのです。

ご自分の心に【愛が培われている時】
とお考えください。

真の愛に触れたところでおこる罪悪感は
【心の安全を守るブレーキ】の役目をし、
あなたを罪から守るものになります。


それでは、創世記3章の現場に移動してみましょう。



■聖書は今、この地上に起こっているあらゆる悩み、苦しみ、
痛みの始まりを次のように紹介しています。


***********************************


主なる神は人を連れてきて、エデンの園に住まわせ、
そこを耕し、守るようにされた。
主なる神は人に命じていわれた。
「園のすべての木から取って食べなさい。
しかし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない
食べると必ず死んでしまう。」・・・。(創世記2章15-17節)

主なる神が造られた野の生き物のうちで
最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。

「園のどの木からも食べてはいけない、
などと、神は言われたのか?」

女は蛇に答えた
「わたくしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。
でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べては
いけない、触れてもいけない、死んではいけないからと
神様はおっしゃいました。」

蛇は女に言った。
「決して死ぬことはない。それを食べると目が開け
神のように善悪を知るものとなることを神はご存知
なのだ。」

女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、
目をひきつけ、賢くなるように、そそのかしていた。
女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので
彼も食べた。

二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り
二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。

その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が
聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて
園の木の間に隠れると、
主なる神はアダムをよばれた

「あなたはどこにいるのか?」

彼は答えた、
「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり
隠れております。わたしは裸ですから・・・。」

神は言われた、
「お前が裸であることを誰が告げたのか
取って食べるなと命じておいた木から食べたのか」

アダムは答えた
「あなたが、わたしと共におるようにしてくださった女が
木から取って与えたので、食べました」

主なる神は女に向かって言われた。
「何ということをしたのか。」

女は答えた
「蛇がだましたので、食べてしまいました。」

主なる神は、蛇に向かって言われた。
「このようなことをしたお前は、
あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で呪われる
ものとなった。お前は生涯、這い回り塵をくらう・・・」


***********************************


この創世記の記述からだけでも、世界には何千冊という分厚い
解釈書があるのですが、その長い解釈を短くご紹介いたしますと、

最大の悲劇、それは人の心が禁断の木の実を
食べてしまった結果、【自己中心】になってしまった

ということを聖書は記し、伝えようとしているのです。

本日はそのことをご理解ください。

聖書的な【最大の罪とは自己中心】をいうのです。

ですから、わたくしは【禁断の木の実】のことを
別名【自己中心になる木】とお伝えしていますし、
また、【「ごめんなさい」がいえなくなる木】と
解釈してお伝えしています。


「一言ごめんなさい」がいえたら、どれだけ多くの
問題が解決するでしょうか。

「ごめんなさい」がいえないために、多くの争いが
起こってはいないでしょうか。

現代でもなお、エデンの園の悲劇、
アダム⇔エバ⇔蛇の関係に見られるように
責任転嫁や自分の否を認めず、非難のしあい、
争いが泥沼化している現実がないでしょうか。

「わたしは悪くない、悪いのはおまえだ」
「なにいってんのよ、ちょっとまって
悪いのはあいつでしょ!!」

世界規模の大きな争いから 
わたくしたちの身の回りにある小さな争い、
いろいろあると思いますが、

どんな大きな争いも、小さな争いも
その原因、また、当事者の心を
煮詰めていきますと・・・
自己中心と自己中心が戦っていないでしょうか。
そのような争いの構図が見えてこないでしょうか?

昨日、ご紹介しておいた聖書のことば
「罪の支払う報酬は死です。」とは
「自己中心は死(滅び)を招く」という意味にも
解釈することが可能なのです。

神様は人を滅ぼそうとされる方ではありません。
神様は人に命と愛をお与えになるお方なのですから。

人の自己中心が人を滅ぼすのです。

今週のテーマは「危機管理」です。

人生を歩む中で人がしておかなければならない
聖書が勧める「危機管理」の一つとして
心が自己中心にならないようにしておくこと

が挙げられます。

・・・・それでは、この続きはまた明日。

もう少し、エデンの園に滞在しまして
「罪」について理解を深め、
そのことによって、あなたの身の回りに
起こっているかもしれない、争いが解決に向かって
少しでも良い方向にいくことを考えてみましょう。

・・・愛の酸素マスクが頭上から降りてきた方が
いらっしゃいましたか?・・・よかったですね。
神様のお赦しをしっかりお受けください。


みなさまの上に安らぎと休息の夕べがありますように。


■□□□■■□□□■■□□□■■□□□■■□□□■

◆新潟で起きた震災で避難しておられるかたの支援が
あまり上手く行われていないようです。また冷たい雨も
降り始めているようで二次災害が起きないことを願って
おります。

実際に現地に赴いて働くことができず、心苦しいのですが、
みなさんがお住まいの区、市や町の役所にはきっと、
新潟震災後復興援助のための義援金窓口などが設けられて
いると思います。お出かけになってみてください。


■□□□■■□□□■■□□□■■□□□■■□□□■



【カリスマ】をお受け取りください。

みなさま、こんにちは。今日も訪問してくださって
本当にありがとうございます。

■今週一週間は人生の「危機管理」をテーマに記事を
書きたいと考えています。
人間が必ず直面する現実「生・老・病・死」についてです。

尊い人生の旅路において、
決して無病息災、家内安全を願ってはいけないという
ものではありませんが、それはある意味「非現実」
であるといえるでしょう。

どんなにそれを願っても、病気、怪我、事故、死
わたしたちの身の上に起こってしまうのが現実です。
キリストの宗教は、そのような「現実」を考えるために
存在しています。

現実の厳しい「危機的状況」に際して、
どのように対応したらよいのか、
対応策の一つとして
聖書の神様が人に与えてくださっている
知恵、希望をお伝えしたいと思います。

■今日から始めようとしておりますテーマは、
かなり重たい感じの雰囲気になるかもしれませんし
みなさまの心を、乱気流に巻き込む可能性もありますので、
離陸前に、今一度、安全のための【シートベルト】(=神の愛)
があることをお伝えしておこうと思います。

10月はじめからこのblogを始めさせてもらいましたが、
すべての記事の根底に「神の愛」があることを自分なりに
伝えさせていただいたつもりです。

万が一、みなさまの心が乱気流に遭遇したときは
弊blog「VIPとしての認識」あたりを
再度お読みいただき、
平静を保っていただくことを願っています。

それでは、
わたくしたちの命を守る愛のシートベルトについて

今日は【カリスマ】という言葉をお伝えしましょう。



【カリスマ】という言葉は現在、大変身近なものになっておりますが
この言葉は
約2000年前に書かれた新約聖書の中に見ることができます。


「罪の支払う報酬は死です。
しかし、神の賜物は主イエス=キリストによる永遠の命なのです。」

(新約聖書 ローマ人への手紙6章23節)


カリスマ性のあるリーダー、カリスマ美容師、などなど
「カリスマ」
みなさまは、どのようにとらえ、イメージされるでしょうか。

「あの人、ちょっとカリスマティックだから」
というような言葉の陰には、
あまり、積極的な意味、良いイメージがないのでは・・・と
個人的には感じていますが・・・。


聖書的には、【カリスマ】という言葉は
大切な、大切な、重要な言葉なのです。


カリスマ、ギリシャ語(新約聖書の原語)では
【Xαρισμα】と書きます。
(数学でお馴染みのαやΣの小文字であるσがありますね。)


この言葉の本質は【神からの賜物】

【賜物】をもう少し身近な言葉に直しますと
【贈り物、プレゼント】という意味です。


【命は神様からの賜物】である、という意味です。

さらに、聖書の別の箇所に次のような言葉があります


「神はその独り子を賜ったほどにこの世を愛された。
それは御子を信じるものが一人も滅びないで
永遠の命を得るためである。」

(新約聖書 ヨハネによる福音書3章16節)


上記、2つの大切な聖書の言葉
それについての長い解釈を短くまとめますと・・・

【カリスマ】=【神の賜物】=【イエス・
キリスト】=【永遠の愛と命の本質】

という図式が成立します。

死は必ず人に訪れますが、
それ以上に人は【神の賜物(キリストの愛)】
を受けることのできる存在であること。

死を越えていく永遠の愛があること
を聖書は前提として記し、伝えているのです。


永遠の愛(=カリスマ:神からの賜物)がすべての人に用意
されている。永遠の愛が、あなたにプレゼントが準備されています。

どうか、この愛を受け取っていただきたいのです。

神様から愛が贈り物として届けられる、このことを覚えるのが
クリスマス【X”mas】 です。 X ‘μαs の【X】は 
キリスト(Xριστοs)を象徴する文字なのです。

mas =マスは マスゲームの【マス】(祝典という意)です。

【カリスマ:Xαρισμα】【クリスマス:X’mas】
すべてイエス=キリストと深い関連のある言葉
なのです。”クリスマス”は ”カリスマス”、
掛詞なのです。

神様からのプレゼント、永遠の命の存在、愛の存在がある
ことを覚え、お祝いするのが クリスマスなのです。

【カリスマ】
本来すべての人が受け取ることができるものです。

ですから、原意に忠実に考えると
「あの人は『カリスマ性』があるから」というような
特別な人を指すための使い方、ある特別な力、
特殊な能力の持ち主の人に適用されることは
あまり正確とはいえません。

すべての人が受けることのできる
永遠の愛を象徴しているのですから。

信じて、願えば、今、あなたにも必ず与えられる救い
神からの賜物(プレゼント)【カリスマ】
どうぞ、お受け取りくださいますように。




命あってこそ

新しいblogテーマを追加しました。

【危機に備える】というテーマです。

新潟の震災のニュースを見ながらこのテーマを抜きには、
このblogを公開できないなと感じたからです。

【危機管理】
これは、会社の経営などでは当たり前のこととして
様々な面からシュミレーション、対応策が考えられて
いることでしょう。

私がここで取り上げる「危機管理」とは会社運営上
お役に立てるかどうかはわかりませんが、

わたくしたちが人として生きていくうえで必ず遭遇する
諸問題、その事実にどのように備えるかがテーマであり、
問題提起の場とさせていただくことになるかと思います。

いわゆる、「生、老、病、死」という領域です。
この現実にどう備えておくか。

必ず通らなければならない障害、あるいは起こるで
あろうと想定される問題への対応策をあらかじめ
用意しておくことは、あなたがパニックに陥ったり
混乱しないための最も有効な方法なのです。


今回の地震でも、ニュースは多くの尊い命
また、小さな小さな命が亡くなってしまったことを
報道しています。
たいへん胸が痛みます。

「人は死ぬ」
この厳しい現実にどう向かい合うか。


逆説的ですが、
聖書においては「死」を考えることは「生」を考えること
「死」を考えないことは「生」を考えていないことになります。

死を考えること、これは決して、
不吉でも、忌み嫌うべきものでもありません。

必ずそのときが来るのですから、
人はそのことに備えておかなければ
すべてが無意味になってしまいます。


究極的な話ですが、【「死」についての危機管理】ができていると、
今、あなたが取り組んでいるすべてのことがさらに大きな意味を持ち、
実を結ぶものになるでしょう。

その為にも【人は死ぬ】勇気をもって
この【現実】と向かい合い、備えをしておきませんか。

死を考える領域、これはやはり宗教の領域です。

少なくとも、キリストの宗教は
このような【現実を直視するため】に
必要な知恵や希望を与えます。

正しく聖書を理解していただくことは
決して「現実逃避」にはなりません。

あなたが今一生懸命取り組まれている
お仕事や学び、すべてが可能なのは、

【命あってこそ】なのです。
この基本はおさえていただきたいものなのです。

命の領域、これはどのように理屈がつけられようとも
やはり神の領域です。

しかし、神はその命を人に与えてくださり、
人がそれを大切に管理するように願っておられる

神様が与えてくださっている尊い唯一の【命】を
どのように【使】うかを考えること
まさに、それがあなたの
【使命:Mission、ミッション】となるのです。

わたくしたちは、与えられ、ゆだねられている
【神からの命の管理者】なのです。

すばらしい管理者の努めとしての【危機管理】

読者の方、お一人、お一人の「生」が守られ
より輝き、実り多いものとなることを願いつつ
このテーマに取り組んでみようと思います。

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◆30秒で読める仕事に生かす聖書の智慧

毎日更新をしておりましたが、今週は更新をお休み
させていただき、【危機管理】情報の提供に努め
させていただきたいと思います。

◆【30秒・・・・】をよりよく適用していただくためにも
【危機管理】で取り上げるテーマが大切なベース(前提)と
なるからです。

◆今日も一日、みなさまのご健康、ご家庭、お仕事が
守られますように。